2011年8月17日水曜日

ぼくらはそれでも肉を食う

ぼくらはそれでも肉を食う 人と動物の奇妙な関係
ハロルド・ハーツォグ 著、山形浩生、他 訳


タイトルと表紙の絵にハッとして思わず手に取ってしまいました(絵はなんとムツゴロウさん!)。この本は、みんなが一度でも疑問に思った動物と食との関係や倫理観について応えてくれかもしれません(その他にも話はいろいろあるのだが)。

なんでイルカを食べてはいけないという人がいるのか、イヌをペットで飼ってる人もいればイヌを食べる人もいる、動物実験はやめろと言っているのにそばからハンバーガーをパクついているひともいる。ほ乳類はだめでもそれ以外はいいのか、頭のいい動物はだめでもそれ以外はいいのか、その線引きはなんなのか、よく観察してみるといい加減なものが多く、いろいろな意見が整理されないままゴチャゴチャしているのが現状。そんな様々な意見があるなかでまとめられてきたのが人類動物学(Anthorozoology)。動物という存在によって人間がどのような行動をするのかに焦点を当てている学問です。

本のタイトルが食からのアプローチと思いがちだが、目次を見ればより多岐にわたった視点からの人間の思考や行動の観察がとても面白い。目次はかなりキャッチーで目を引きます。

第一章 人間と動物の相互関係をめぐる新しい科学
第二章 かわいいのが大事 - 人間のようには考えてくれない動物についての、人間の考え
第三章 なぜに人間は(そして人間だけが)ペットを愛するんだろう?
第四章 友だち、敵、ファッションアイテム?人とイヌのいろんな関係
第五章 「高校一の美女初のシカを仕留める!」動物の関係と性差
第六章 見る人しだい - 闘鶏とマクドナルドのセットメニューはどっちが残酷?
第七章 美味しい、危険、グロい、死んでる - 人間と肉の関係
第八章 ネズミの道徳的地位 - 動物実験の現場から
第九章 ソファにはネコ、皿には牛 - 人はみんな偽善者?

外国人になぜイルカや鯨を食べるのかと聞かれたらどのように答えるだろうか。いままでなんとなくしか考えたことが無かったが、自分の考えを持ったり整理するいい機会になるかもしれません(この本に答えが書いてあるわけではありません、念のため)。


この本を読んでいる最中にフラッシュバックしたのが、
以前仕事でシカゴに行ったときに入ったステーキハウスで、巨大な塊肉をナイフで裂きながらムチョムチョと食べてるアメリカ人たちの姿でした。その野性的な肉の食べっぷりに、ある種の敗北感とも憧れともつかない感覚を持ってしまったのでした。
ウマイから食べるぜという単純で本能的な図式がそこにはあり、その本能むき出しの光景に、それまで理性的に振る舞いすぎていたかもしれない自分も我に返って!?肉やブリブリの巨大ロブスターにむしゃぶりついたのでした。

以前、永谷園のCMで若い兄さんが突如音を立てて一心不乱にお茶漬けをすする、公衆の面前で少しタブー(そこまでではないが)に踏み入れるあの感じに近いと思います。野性>理性。日本では躾けや作法的なものが本能を押さえ込み過ぎてはいないだろうか。アメリカにももちろんマナーはあるでしょう。だけどあのときはアメリカ人全員がそう見えてしまった。そんな食べっぷりにちょっと羨ましくなったわけです(日本の作法ももちろん好きですし、ガッツクことだって多々ありますw)。
考えて食べもするが、ときには欲望のごとく(タイトルにもあるように)肉喰いてぇという思いだけで好きなものを食べるのがいいと思います。

2011年8月7日日曜日

日本のDIY「魚を捌く」その1

魚を捌くことをDIYと呼ぶのか。スーパーで刺身のパックが売っている現状を考えると、これは自分でやってみるというDIYの精神に適うものととらえてみました(やや強引w)。
いくつか参考になる、スゴイ捌きっぷりを見てみましょう。ほれぼれするその手仕事にコツを学んでください。肩の力がまったくといっていいほど抜けています。


ひとつめが「イカの捌き方」。東北地方の方だろうか、おばちゃんの見事な包丁捌き、そして皮の剥き方、地元の食べ方が参考になります。イカの捌き方や皮の剥き方には人様々なやりかたがあるかもしれませんが、これはやってたら自然にこうなった流れみたいなものを感じます。しゃべりはとても微笑ましくこの映像が好きです。
もうイカを捌くのに面倒も大変さもまったくありません!



ここで我々が学べるのコツのひとつはエンペラからの皮の剥き方。皮とは反対側に切り込みを入れて、その切り込みに指を入れ皮側まで貫通させ皮を剥くきっかけとしている。スゴイ。キッチンペーパーは不要です。
そして用意された三つのザル。これが大事です。我々は段取りに慣なれておらず、捌き始めてからあたふたしてしまうのです。盛りつけ用の皿と、ワタと足用の器、内臓用にゴミ袋か新聞紙があればいいでしょう。私は新聞紙を用意します。水分も吸うしシンクも汚れませんので。
ガリリッガリリッ!は耳に残りすぎw


ふたつめは「ハマチの捌き方」を西のほうから、本職の方でしょうか。動きに全く無駄がありませんw そして包丁がよく切れる。寡黙さも手伝ってか、俺は庖丁一本でやってるぜぐらいの迷いの無さを見た気がします。



ここから少しでも学べるのは、包丁はよく研ぐことw エラと同時に内臓を取る方法、皮むきと中骨の処理をかなり合理的な方法で行っていることでしょう。相当な手練れですのでDIYな方々はできるところからゆっくり真似していけばよいでしょう。

DIYと発酵

Mar Frauenfelder著「Made by Hand」。DIYにめぐる個人の奮闘記といったところでしょうか。でもこの本に書かれているDIYは私が思っているよりも非常に多岐に渡っていて、DIYがとても広い概念なのだと驚きました(日曜大工がDIYだと思ってましたw)。野菜、肥やし、自家発電、家、発酵食品、蜂の飼い方から果ては教育までも「自ら作ることにチャレンジする」のが面白い。
自分の興味というものがどこから湧き上がってきているのかなんて、あまり考えたことなかったけれど、この本を読んだら近い感情がこの中にあるかもしれないと思い始めてきました。



なにか世間にあるもので工業化されたり製品化されているものを自分でつくりたい、あるいは仕組みを知りたいという欲求は多くの人々の中にあるのではないでしょうか。ただ最近に限っていえば、(特に電子機器に関しては)何でもマイクロ化する傾向が強くて、どんどん肉眼でも見えなくなってしまい、自分でコントロールできる領域が狭まってきています(人間業で作るのがは不可能なものも多くなってきているんでしょう)。人々の興味も画面の中のコンテンツに移ってしまい、もう機械そのものへの興味というのはこれからの時代は希薄になってくるのかもしれません(そういった意味ではプログラミングに興味が移行している?)。

昔のラジオや扇風機、トースターなどあらゆる家電がアナログの操作系によって構成されていました。中をあければ仕組みがわかります。いじってみたくなるのは、元に戻せるだろうという勝手な自負心も手伝って、自分のコントロールできる領域を試したくなるのでしょう(それっぽい理由を考えても単なる好奇心としか言いようがないですがw)。

食べ物に関してはどうでしょうか。
このブログでよく出てくる発酵の作用を及ぼす菌はもともと人間の目には見えないものですが、なんでかとても興味があります(プログラミングに似ているのかも、いやプログラムよりも中身は見えないですね)。らっきょう漬けや味噌の制作過程において、菌自体は見えないけれどもプロセスは感じられます。見た目、匂い、発酵する音、味、触れた感覚で、五感で感じることができます。菌がどんな科学的な作用をしているか分からないけれど、自分で分かる範囲で感じることができるとき、人は何か作ったりコントロールしてみようという興味がわき始めるのだと思います。
もともと人間の手で作っていたものを工業化しているのだから、本当は誰にでもできるはずなのだけれど、現代人が時間や手間というものを省いて便利さを優先した結果、いろいろなことを忘れてしまったんでしょう。

この本にも発酵の章がありますが、レシピや内容については期待しない方がよいかもしれません。この本はレシピ集ではなくて、それぞれの章ごとに、作るまでに行き着く状況や思いがつづられているもの(アメリカ人も日本人も根っこは一緒なんだなぁという感じです)。アメリカ人(いや著者かな?)やるなぁという行動力、そして広い土地を持っていて羨ましいw でもそんなことより歴史のある日本ならもっとDIYに使える知識や技術などの文化がとてつもなく眠っている気がして、掘り起こしてみたい衝動に駆られています。